支部長紹介
国際空手道連盟 極真会館 愛知名古屋支部 支部長
第8回世界チャンピオン 木山仁
- 1989年
- 極真会館鹿児島支部 入門
- 1997年
- 第1回全世界ウェイト制大会(中量級)優勝
- 1998年
- パリワールドカップ チーム (団体戦)優勝
- 第30回全日本大会 (無差別)三位
- 1999年
- 第7回全世界大会出場
- 2000年
- 第32回全日本大会(無差別)優勝
- 2001年
- 第2回全世界ウェイト制大会(軽重量級)優勝 2階級制覇
- 第33回全日本大会(無差別)優勝 2連覇
- 2003年
- 第8回全世界大会(無差別)優勝
- 2004年
- 選⼿引退
- 2005年
- 名古屋中央支部開設
- 2007年
- 50人組手完遂(伍段取得)
- 2009年
- 世界⼤会⽇本代表監督に就任
第4回世界ウェイト制⼤会 軽量級・中量級・軽重量級の3階級で優勝 - 2011年
- 選⼿強化委員会委員⻑に就任
- 2013年
- 第5回世界ウェイト制⼤会 軽量級・中量級・重量級の3階級で優勝
- 2017年
- 第6回世界ウェイト制⼤会 軽量級・中量級・重量級の3階級で優勝
- 2019年
- 第12回全世界⼤会(無差別級)で上⽥幹雄を優勝に導く
⽇本代表監督を退役
⽀部名を愛知名古屋⽀部へ変更
現在も愛知名古屋⽀部⽀部⻑職の傍ら、全国選⼿強化委員会委員⻑として選⼿育成に取り組み、極真会館の世界⽀部へ指導者として派遣され活躍する。
良き指導者として
現役引退後の現在は、選手として経験してきたことを次世代に伝え、極真空手を広めるために、愛知県名古屋市に極真会館 愛知名古屋支部を開設しました。
社会に貢献し活躍する人材を育てるため、日々指導に努めています。
道場モットー
世界チャンピオンまでの道のり
誠実に頑張っていれば必ず未来が拓ける
地方都市から世界の頂点に駆け上ったサムライ
2003年11月 日本が空手母国として海外に流出した王座を取り戻せるかどうか、すべては木山の肩にかっていた。
準決勝を迎えて残った日本人はただ一人。他の3人はすべて外国人である。
迎えた準決勝、エヴェルトン・テイシェイラ戦。事実上の決勝戦といわれたこの試合で、木山は『ある程度打ち合いは避けられない』と覚悟していた。
5回戦の相手、アルトゥール・ホヴァニシアン、準々決勝で対戦したレチ・クルバノフさえ完封した木山だったが、テイシェイラはそれまでの相手とは違う。
スピードとパワーを兼ね備えた獰猛な仕掛けのすべてを、カットし、よけ切ることはできないだろうと予想したのだ。
百戦練磨の木山に比べ、世界大会初出場のテイシェイラは経験不足だった。
延長に入るとあきらかに勢いが落ちた。 そして木山の体もテイシェイラの攻撃に慣れてきた。
『あそこは覚悟を決めて打ち合いにいきました。
ああいう苦しい場面でこそ堪えなければいけないんです。
それを自分は経験でわかっている。
キツイところで逃げてはいけない、
あきらめてはいけないということが。
そういう稽古をずっとやってきたわけですから。
今まで試合をやってきた経験と、
苦しい稽古を続けてきた自信と。
それがなければあそこであきらめていたと思います。』
木山は一度場外スレスレまで押されていた流れを一気に試合場の中央まで押し戻した。こうなるとブラジルの若きエースも蛇に睨まれたカエル同然だった・・・
歩み
木山の極真空手との出会いは、松井館長が優勝した第4回世界大会のビデオを見て『極真』を初めて知り、近くの極真の道場に足を踏み入れた。 しかし、初めて体験する極真空手の稽古は、初心者には超の上に超がつくほどハードだった。
『最初から千本突き千本蹴りをやらされたのには驚きました。
30分くらい延々と突き続ける、蹴り続ける。
でも、ああいうことをやり遂げられたのは嬉しかったですね。
ここにいる先輩についていけば、必ず強くなれると思いました。』
入門当初の木山について師匠の竹和也師範はこう言う。
『目立つところも、才能も何も感じなかった。
どこにでもいる普通の高校生でした。
一生懸命空手に打ち込むというのでもなく、かといっていい加減というわけでもない。
あくまで普通に通ってくる生徒の一人。』
入門から半年後に県大会(高校生の部)に青帯で出場し、デビュー戦は茶帯の先輩に敗れて初戦敗退。その後、自分に勝った先輩がウェイトトレーニングをしているという話を聞いて、すぐに自分も通うようになった。
週3回道場に行き、あとの3回はウェイトのジムに通い、3ヵ月の間で体はみるみる大きくなり当時67kgだった体重は80kgまでアップした。
この後、開かれた秋の交流試合で優勝。頑張れば結果が出るという楽しさを理解できたのもこの頃だった。
時は過ぎ、社会人になり、全国的な大会で実績が収められない時期があった、本人いわく『一般稽古しかやらなかったから、ある意味当然の結果』だそうだ。
一般稽古以外にトレーニングをやる必要性を感じた木山は、今まではどちらからというと“稽古をやらされる”方だったが、自分から望んで稽古を行うようになった。
『"自分から"という気持ちはまず稽古の量に反映されました。
何が自分に欠けているのかを考えて、行き着いたのが基礎体力。
それもウェイトトレーニングではなく補強を重視したんです。
補強はウェイトトレーニングに比べて辛くてキツい、これを週3回。
これをやれば絶対強くなると信じていたんです。
『俺はウェイトより辛くてキツいことをやっている!』これが自信になりました。』
ちょうど竹師範が木山の才能を感じ、本格的にマンツーマンの特訓を施すようになったのもこの時期だった。稽古が始まると、ときには0時をまわることもあった。 次の日は朝7時には出勤しなくてはいけない。 木山はそんな社会人生活を7年も続けた。
その後、人生のターニングポイントとなったのが97年4月に行なわれた第1回世界ウェイト制大会だった。
『必ず優勝して後のステップにする』と決めていた木山は、85kgあった体重を5kg落として中量級にエントリーした。
『あのときは明確に優勝を意識していました。
というより(優勝を)確信していた。
自分が優勝して表彰台でトロフィーをもらうところが
見えるくらいのテンションで毎日稽古していましたから』
緒戦から準決勝、決勝も相手に付け入る隙を与えない組手で、みごと"世界"と冠するタイトルを初めて手に入れた。
木山は『体重別で世界チャンピオンに到達したら、次ぎなる目標は当然無差別だ。』 無差別の世界大会は木山にとって未体験ゾーンだったが、第7回世界大会に向けて、『外国人選手にパワー負けしないように90kg台で大会に臨む』という戦略を立てた。
『90kg台の身体で中量級を制覇したときの動きができれば鬼に金棒』 と考えたのだが、現実は甘くなかった。
明らかに動きが悪い。
体も重い。 体重は90kg台に乗せたものの、体がその体重に馴染んでなかったのだ。
結果は、大会2日目の3回戦、体重判定で惜敗…
決して侮ったわけではない。ただ、相手に屈したというより、木山自身の失速が敗因だった。
大会3日目には同じブロックにエントリーしているフランシスコ フィリォとの対戦を期待して鹿児島から大応援団が到着する。ところが、応援団が会場に着いたときには木山はトーナメントから姿を消していた。
『情けない。人生であんなにつらいことはなかった』 しかし、試合で負けた悔しさは試合でしか晴らせない。
次第に『このままでは終わらない』という気持ちが湧いてきた。
『過去を変えることはできないが、未来は自分で切り開くことができる。』
翌年春、4年後の第8回世界大会を見据えた上で竹師範や総本部と相談し、単身ポルトガルに渡り、ヨーロッパ選手権大会に出場。 軽重量級で優勝を遂げ、ここから記録的な快進撃が始まった。
00年第32回全日本、01年第2回世界ウェイト制、同年第33回全日本まで連続優勝。
00年のヨーロッパ大会から02年の全日本準決勝まで、なんと29連勝という記録を作り上げた。
第8回世界大会が開催される03年1月、28歳になった木山は高い山頂に目を向け、世界の頂点にたどり着くべく、さらなる猛稽古に打込んでいった…
決勝戦
決勝前 『もう一つだ。絶対に勝ってやる。もう優勝しかない。
あとは出し切るだけだ』
セルゲイ・プレカノフとの決勝戦が始まる前、手数で攻めてくるプレカノフに対して、木山は最初から 相手にダメージを負わせる攻撃を仕掛けていこうと考えていた。
事前に前足が効いているという情報を耳にしていたが、戦っていくうちに奥足に下段が上手く入ることがわかった。
最後のラッシュも内股蹴りで切り崩した。判定は3-0の僅差ながら、試合は終始木山のペースで進み、内容は文句無しの完勝と言っていい。
木山仁、海外へ流出した王座を奪還す
- 優勝
- 木山仁
- 準優勝
- セルゲイ・プレカノフ
- 三位
- エヴェルトン・テイシェイラ
- 四位
- グラウベ・フェイトーザ